ユーロ・ダンス・インプレッション

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©Ronan Barrot

学校の夏休みと同時に始まるフェスティバルは、7月6日から26日までの約3週間。インのメイン会場は、法王庁の中庭に設置された屋外劇場。今年はこのメイン会場で、しかもオープニングを飾るという名誉を得たのが、宮城聡演出SPACによる「アンティゴネ」。これは絶対に逃さないぞ! と意気込んで行った。もちろん完売。


「アンティゴネ」©Christophe Raynaud de Lage

会場に入った途端、そこは別世界だった。舞台一面に水が張られ、澄んだ空気に満たされた中を、白装束の人たちがろうそくを手にしながらゆったりと漂っている。水面に映る姿が神秘的だ。客席がせり上がるすり鉢状の舞台は、足元まで見えるし、全体の構成を見るにはとても良い。ペチャクチャお喋りに余念のない観客の喧騒と舞台の静寂に、少し違和感を覚えながら開演を待っていると、足早に現れた5人の役者が、甲高い声で喋り始めた。「シズオカ」「モン・フジ」ん? フランス語でSPACの位置情報を語り、それからあらすじをジェスチャー付きでささっと説明。これがマンガチックで大受け。一生懸命フランス語で話す姿が、何より嬉しかったのだろう。これだけで大拍手。
そして舞台は一変する。そこは精霊の世界。いかだに乗った僧が現れ、精霊たちに小物を手渡している。それを身につけた人が与えられた役を演じるのだ。こうして「宮崎版 アンティゴネ」が始まった。
ストーリーはギリシャ神話そのもの、でも日本風。中央に積み重ねられた大きな石の上のアンティゴネ。上手の低い岩の上ではポリュネイケスとエテオクレスが戦い、叔父のクレオンの命令で、ポリュネイケスの屍が放置されている。下手の少し高い岩の上ではハイモンが悲しみを訴える。舞台を石庭に見立て、主な登場人物は大きな岩の上で演じるために、3年前の「マハーバーラタ」に比べると動きが少ないように感じたが、法王庁の高い壁を利用した影の演出は見事だった。大きく浮かび上がった影はただの影ではない。そこには、心が映し出されているのだ。役者は静かに語っているけれど、大きな影が示す心の内は、憎悪と悲しみで張り裂ける寸前なのだ。ちょっとした仕草が、正面から見るのとは別物になって映し出される。見事な手法だった。そして皆は死に、精霊となって彷徨い続ける。灯篭を流し、精霊の世界の夏祭りは静かに続く。
SPACのメンバーによる2時間の演劇は、アヴィニヨンに新たな世界を提示した。和風であり洋風、ギリシャ神話であり、現代社会へのメッセージでもあった。セリフはすべて日本語だったが、音として捉えるセリフと生演奏に違和感はなく、言葉の壁を超えた演出方法が多くの人の心を捉えたように感じた。(7月7日法王庁の中庭)


「アンティゴネ」©Christophe Raynaud de Lage

アヴィニヨンのフェスティバルは演劇中心だけれど、演劇とダンスの垣根は低くなっているし、ヌーボーシルクに至ってはダンスのジャンルに分けるところと演劇にするところがあるので、カテゴリー分けを信じてしまうと面白い作品を見逃すことがある。このエマ・ダンテの「BESTIE DI SCENA」がそうで、演劇なのに言葉はほとんどないフィジカルシアターだった。狭いアヴィニヨンならではの口コミのおかげで、こ~んな面白いものが観られたのはありがたい。
こちらではよくある全裸の作品だけれど、そこには恥じらいがあった。男女平等、裸がなんだ! ではなくて、裸にされてしまって困っているのはお互い様、大事なところは皆で協力して何とかしてでも隠そうとする行為が微笑ましい。共同生活、相互協力の助け合いの精神、現代人への皮肉がたっぷり。それと同時に、これはテレビで流行りのサバイバル番組みたいで、密室に入れられた人たちが、投げ込まれるオブジェをめぐって試されているように見えた。逃げ場のない部屋で一体何が起こるのだろう。不安と羞恥心で中央に固まる人たち。そこに長い布が放り込まれれば、それで体を隠すし、少しの水が放り込まれた時のざわめきは、それぞれの思惑がト書きのように見えた感じだった。水は貴重だ。どうしても飲みたい。でも、全員にいきわたるように飲む量を考えなくてはならない。でも喉は乾いている。しかし、時間はない、水の入ったボトルは紐で繋げられているから、一定時間が経つとさっと引き上げられてしまうからだ。限られた時間の中で、最大限に利用しなければ生き延びられない。捕虜のような、難民のような、動物園の見世物のような感じが少し気になったが、次から次へと突拍子のないものが放り込まれて、笑いの渦に巻き込まれていった。見世物になった人たちの行動が微笑ましいのは、そこに恥じらいと連帯があるから。共同生活はエゴむき出しでは不可能なのだ。しかし、一発の爆竹が放り込まれた時、様相は一変する。ひとりの男が、何かに憑かれたように転がり始めたのだ、バク宙バク転をしながら爆竹とともに暴れまくっている。突飛な出来事に唖然とする一同。駆け寄ってなだめたかと思ったら、今度は別の男が猿になって走り出した。しまいには客のカバンを奪って、中身を放り投げる始末。「オンリ~ユ~♪♪」が流れれば、男女が肩を組んで踊りだすし、金平糖人形になりきって踊り出した女性もいた。何かのきっかけで飛び出す特技、それは、実はその人の本能であり、個性なのかも。最後はもうお祭り騒ぎとなって、皆舞台ではしゃいでいる。
爆笑のうちに終わったけれど、ここにはたくさんのメッセージが隠されている。極限状態になっても、恥じらいを忘れず、お互いを尊重して助け合い、そして個性という誰にも真似のできない特技を発揮してこそ、平和な日々が訪れるのではないかしら。輪になって、中央の人がする簡単な体操を全員が真似してウオーミングアップする姿が、グローバル化されて個性のないありきたりの人だった冒頭の場面がフラッシュバックした。(7月23日オーバネル高校の体育館)


「BESTIE DI SCENA」©Christophe Raynaud de Lage

世界の中には女性が権利を持てない国がある。権利はあっても、その人間としての存在を正当に見られていない地域がある。女性の強さと美しさ、そして儚さを強いメッセージで残したのが、レミ・ポリファシオの「STANDING IN TIMEだった。
ハロゲンの白い強いライトが下から上へ1時間かけて上がる中、女性たちの怒りと悲しみが浮き彫りになる。弔いの場なのか、黒い服を身にまとった女性たちの歌声が響く。それに答えるもうひとつの声。コンクリートの塊が散乱する中、棒を持ち、目を見開いて太い声を出す女性は、怒りをぶつけているように見える。その声質は独特だ。大きな硬い台の後ろに立った女は、生贄だろうか。服を剥がされ、台の上に立たされている。目を見開き、前をじっと見据えて立っている。やがてその額に紅い筋が流れた。それは何本にも渡って体を伝わり、落ちていく。回廊の奥の台に寝かされた女は、白い布を被せられ、舞台前まで運ばれる。死んでいたと思った女性は、膝を立てた、その奥に見えたのは子宮。
女性がいなければ子孫は繁栄しない。しかし、それに見合った価値を見出されずに死んでいく人がたくさんいるのだ。美しく澄んだアカペラと、腹の底から出るような太い声、優雅さと強さ、愛情と憎しみ、悲しみと怒り。ニュージーランドとチリを旅して、そこに住む女性たちを描いた作品。古いしきたりの中で生きざるを得ない女性たちの生と死のメッセージが突き刺さった。(7月8日サン・ジョセフ高校の中庭)


STANDING IN TIME©Christophe Raynaud de Lage

演劇とダンスのハーモニーを追求し続けるアンブラ・セナトールの新作「SCENA MARDRE*」は、さらに磨きがかかり、ばかばかしさと皮肉を楽しませてもらった。日常のちょっとした出来事を大げさに描き、しゃべっていたかと思うと踊り出し、会話は途中でプツンと途切れ、全く違うシチュエーションにいつの間にか変わっている。この夢を見ているようなザッピングが人気だ。
白く柔らかいカーテンのある部屋、教会の鐘がなり、犬が吠えている。ありきたりの日常、のはずがいきなり非日常と交差する。突然人が倒れる。まあこれは時々ある。突然相手が逆回しのように戻っていく。いきなり演歌が流れる。日本なら普通だろうけれど、フランスではほとんど聞かれない。怒っていたかと思うといきなり笑い出したり、いつの間にか映画のワンシーンになっていたり。閉じたホリゾントの黒い幕を引くと、向こうには柔らかい光に包まれた白いカーテン。覗き見をしてみると、ジャガイモ? ナンセンスな日常、いや非日常が交差して絡まり、めちゃくちゃなようでいて統制がとれている。ダンスと演劇を交える手法はよくあるけれど、セナトール版はちょっと真似できない独特のものがある。それが気に入っている。(7月7日ミストラル高校体育館)


「SCENA MARDRE*」©Christophe Raynaud de Lage

ルネ・マルグリットみたいなセナトールの作品だったけれど、別のマルグリット的作品を見せたのが、ギリシャのディミトリ・パパイオアヌーの「THE GREAT TAMER
舞台そのものがトリックになっている。でもまずは、なんか変、から始まった。椅子に座った男が立ち去った後に残されたのは靴。履いていたはずの靴が床に残ってる? 日光浴をしているのかと思ったら、どうもそれは死体だったらしい。その男に男が白い布をかけるけれど、別の男がベニヤ板を倒すから、その勢いで布は剥がれてしまう。再び布をかけ直すけれど、またベニヤ板を倒されて布がめくれる。布をかける→板を倒す→布がめくれる→布をかけ直す→板を倒す…永遠に続くかもしれないふたりのやりとり。重力の方向が変わったのか、握手するふたりの男は床に平行で空に浮いている。宇宙服の人、石膏で固められた人、足が床にくっついた人、突然床に吸い込まれる人。ここは重力のないラビリンス? そこに数えきれないほどの矢が降ってきた。笑ってはいられない。これが人生、足元に気をつけるだけでなく、空から降ってくるものにも気を配りながら生き延びなくてはならないのだ。地球儀をもてあそんで楽しんでいるのは、権力者だけでなく、宇宙からの侵入者かも。(7月20日La Fabrica)


THE GREAT TAMER©Julian Mommert

久々に見たセルジュ・エメ・クーリバリーは、すごく大人になっていた。ブルキナファソ生まれで、アラン・プラテル率いるバレエ・C・ド・ラ・Bで踊るのをきっかけにベルギーに移住したアーティスト。こんなことを言っては失礼なのだが、アフリカ人の作品は、生と死、自由を求めるメッセージが直球で来ることが多く、見終わった後の重さに辛いものを感じることが多いのだが、「KALAKUTA REPUBLIK」は少し様子が違った。確かに、アフリカの問題を取り上げている。抑圧、内戦、差別、貧困。しかし、それを前面に出さず、今どきはやりのクラブを舞台にしたことで、メッセージが変化球になった。しかし、終わってみるとアフリカの様々な問題が目の前に広がっている。うまい構成だ。
そこは密室、屋外公演なのになぜか地下の閉ざされた部屋をイメージした。そこで若者たちはひたすら踊りふける。ミラーボールに照らされて、激しいリズムに乗って、全てを忘れ、自己に陶酔するかのように踊りまくる。疲れればソファーに座ってドリンクを飲み、フロアで踊る人を冷やかす。アフリカでなくても、どこにでもありそうな光景だ。「君はいつも詩が必要だ」「連合がアフリカを引き裂いた」「私たちは怖い」そんな言葉がホリゾントに映し出されるけれど、誰もそんなことは気にしない。見ている方だって、強烈な音楽と踊りに体を揺らしながらノリノリで見ている感じだ。そして人は去り、誰もいなくなった後のクラブは、散らかり、荒れている。それを見たとき、これがアフリカの実情なのではないかと。人っ子ひとりいず、ソファーのクッションが剥がされ、オブジェが散乱した荒れ果てた家。戦争か、強奪か、虐殺か…、いや、それだけではない、強烈なリズムに溺れる若者たちの姿、それは欧米の文化を浸透させようとする先進国による、アフリカ独自の文化や風習の破壊なのではないか。それは時代の流れかもしれないが、開拓、デモクラシー、より良い文化的生活と民主主義を、という名の下に、先進国は自分たちの文化や風習を押し付けていたのではないだろうか。隠されたメッセージに、しばらく動くことができなかった。(7月20日セレスタン修道院の回廊)


「KALAKUTA REPUBLIK」©Christophe Raynaud de Lage

選ばれたアーティストだけが上演できる法王庁の中庭。今年ダンスでこの舞台を踏んだのが、スパニッシュのイスラエル・ガルヴァン。斬新な振り付けで注目を浴びている人で、アクラム・カーンとの共演で大きな話題を呼んだことは記憶に新しい。
この新作LA FIESTAは、面白い結果をもたらした。ダンス関係者からは不評で、演劇関係からは好評と、真っ二つに分かれたのだ。これは、ガルヴァンの踊りを期待したための結果かもしれないが、これまでのような勢いのある踊りも構成も感じられず、出演者があたりの空気も読まずにしたい放題、美しいフラメンコの曲の代わりに奇声が放たれ、オペラやジャズやポップスの歌声がアトランダムに響き、曲の流れもなければ踊りの流れもなく、ブツ切れの場面が続いていく。それはまるで、出演者任せの構成なしに見えたし、法王庁独特の高い壁と大舞台を生かした演出もさほど感じられず、後半は主に下手の台の上での歌と少しの踊り。ガルヴァンの膝のサポーターから、昨年の膝の故障を引きずっているではないかと心配したのだが、これは深読みする必要があったようだ。
公演の最後にはダンサーが歌い、歌手が踊り、出演者が入り乱れてのお祭り的な盛り上がりを見せて終わるのが伝統的手法だけれど、芸術一家に生まれ、子供の頃から旅まわりをし、練習を重ねるのが日常だった彼にとって、このお祭りは奇妙で、疲労と孤独を感じたという。それと同時に、これは開放でもあると。だから、音楽を構成することも、演奏家たちと踊りを合わせることもなく、ひとりの行動が連鎖的に反応して広がっていくのではなく、それぞれがその場で感じたことを自然に演じるような構成にしたかったという。だから台本を求めず、それぞれが体で感じることと、束縛のない音楽が、開放的な作品を仕上げていけるようにしたとプログラムで語っている。
確かに、ガルヴァンの目的は達成されていた。歌いたい歌だけを歌う歌手、それは歌が彼女の感情そのものだからだろうし、台に何度も体当たりする男の姿には、滑稽を通り越して哀愁が感じられた。見てくれの良いダンスでも、伝統を踏まえたダンスでもなく、楽しいだけのダンス公演ではないのだ。それぞれが日常を抱えながら、旅まわりをし、作品を演じ続けているのだ。出演者の舞台裏を描いたようなこの作品、もしもう一度見る機会があれば、ダンスではなく、演劇作品としてみてみようと思う。どの作品も自分の人生の一場面を反映しているというガルヴァン。自分探しはまだまだ続く。(7月19日法王庁の中庭)


「LA FIESTA」©Christophe Raynaud de Lage

もとダニエル・ラリューのダンサーだったファニー・ド・シェレは、ここ最近どんどん演劇に傾いているように感じた。「私は日本の演出家」という作品で注目を浴び、その独特な作風で人気のある振付家。新作「Les Grands」は小説家ピエール・アルフェリ書き下ろしの台本をもとにしていて、演劇/ダンスとジャンル分けされていたけれど、動きの多い演劇作品。どんどん演劇に傾いていくのが、ダンスファンとしては残念だけれど、これも彼女の成長過程と見守りたい。作品は、親子3世代の思惑をぶつけ合ったもので、子供、思春期、大人の立場が描かれる。
まず、7歳くらいの女の子が出てきて、学校帰りに道草をするように、階段状になった舞台を歩き回り、引っ込むと今度は中学生くらいの女の子が同じ衣装で出てくる。しばらくすると彼女の大人の姿をイメージさせる女性がやはり同じ衣装で出てくる。2組の男親も同じこと。この3世代が、それぞれの立場で自分を主張する。悪気があってやったのではない、ちゃんと理由があったのだと主張する子供。それは常識はずれだと言う親を、常識はなんだと噛み付く。今は親だけれど、昔は僕らと同じ子供だったじゃないか! 子供には大人の気持ちがわからないし、大人は子供の頃を忘れて世間のしがらみに囚われていると。なかなか耳の痛いセリフが続く。アルフェリの台本だけれど、シェレと役者たちで話し合いながらセリフを煮詰めたらしく、所々にシェレらしき言い回しが入っている。親の言うことは黙って聞け! と言われて育った私には、子供達の堂々とした意見と、それを説得させる親の話法にふむふむと感心するのだった。舞台を移動し、出入りも多い動きのある作品だったけれど、ダンスファンとしてはもう少し踊りが見たかったな。(7月21日ブノワ12世劇場)


「Les Grands」©Christophe Raynaud de Lage

「FACE À LA MER, POUR QUE LES LARMES DEVIENNENT DES ÉCLATS DE RIRE」長いタイトルの新作を発表したのが、チュニジア出身のラドゥアンヌ・エル・メデブ。祖国を離れて20年、その思いを題材にした作品を作っている。
ひとり、またひとりと出てきた出演者たちが、遥か遠くを見るように客席の奥を見ながら左右に歩いている。そしてグランドピアノから流れる旋律と美しい歌声。人の動きは波のように行ったり来たりし、歌声とピアノの旋律が波間を漂う。ここは浜辺、チュニジアなのか、反対側の大陸なのか、海の向こうに想いを寄せる人々は、さらに遠くを見ようと肩車になって、見つめている。とても美しい光景だったが、これが延々と続くと、疑問が湧いてくる。想いを馳せるのはわかるが、馳せているだけでは何も生まれない。時々ダンサーが踊っては、また遠くを見つめながら歩いている。すると突然ひとりの男が苦しみ喘ぎ出した。なぜ激しく動き出したのか、その動機が見えないまま、延々と苦痛な顔をしながらのたうちまわっている。時に周りの人に助けを求めようとするが、誰も手を貸すことなく傍観している。私にはこれがとても滑稽に見えた。なぜ助けてあげないのだろうかと思うと同時に、舞台構成がスカスカに見えたのだ。今度は女性が髪を振りほどき、大きなジェスチャーとともに話し始めた。「バババババ、ピシューン、ボフボフ、バキューン、ズズズ。ふざけんじゃない、何するんだって前に出たら、銃弾が頰をかすめた。驚いて倒れて後ろを見ると、人が死んでいた」チュニジアでのアラブの春真っ只中の街の様子を演じているのだ。これは確かにインパクトがあった。出演者全員がチュニジア人だからなおさらだし、それぞれの祖国への思いや経験は本物だ。それはわかるけれど、ダンス作品として見た時、そして、チュニジアの事情を深く知らない者にとっては、あまりにも漠然とした作品に見えた。(7月21日カルム修道院の回廊)


「FACE À LA MER, POUR QUE LES LARMES DEVIENNENT DES ÉCLATS DE RIRE」©Christophe Raynaud de Lage

スジェ・ア・ヴィフというシリーズがある。初対面のジャンルが違うアーティストが30分の作品を作るもので、これが今年20年目を迎えた。そこで、12回にわたり、役者のフレデリック・フェレーと日替わりゲストによる特別プログラム「スジェ・デ・スジェ-スジェ・ア・ヴィフの20年」が行われた。45分タイムリミットで、電光掲示板がカウントダウンする中、20年の歴史と会場の設備などの説明が行われ、その横でゲストがパフォーマンスをするというもの。あまり興味がなかったのだけれど、フィア・メナード版が好評だったという噂を聞いて、それならとジョセフ・ナジとドミニク・メルシー版を見に行った。
フェレーの解説は明快で小気味好い。20年間会場を提供しているサン・ジョセフ高校のマリア像のある庭。1850年にできた建物で、マリア像はこの庭を転々とし、時には撤去されていたという事実には驚いた。モニターを使って写真や図解をしながらの解説は、2015年のシモン・タンギーとのスジェ・ア・ヴィフで上演したのと同じ形式だが、さらなる追求が見られて面白い。ヴィフ・ア・スジェからスジェ・ア・ヴィフにタイトルが変わった理由がわかったようなわからないような説明に笑いながら、この小さな庭の歴史に驚き、観客が絶対に見られない高校のシャペルの内部を小型カメラで映し出し、開かずの窓を開け、そこからナジとメルシーがにゅっと顔を出し、軽快な解説の横ですっとぼけたようなナジとメルシーのデュエットが微笑ましかった。(7月20日サン・ジョセフ高校マリア像のある中庭)


フレデリック・フェレー ©Christophe Raynaud de Lage

さて、レギュラーのスジェ・ア・ヴィフは、例年通り4つのプログラム計8作品が上演された。全部を見ることはできなかったが、正直言ってぶっちぎれるほど面白い作品はなかった。せっかくなら、中庭という環境を効果的に使って欲しいと思うし、ジャンルの違うアーティストがどんなやりとりをするのか、そのふたりが同等に存在して欲しいと思うのだが、短期間で見知らぬ同士が作品を作るのは簡単なことではない。2作品が休憩なしで立て続けに上演されるので、特に後半組は会場の雰囲気を読んで対応しなくてはならないことも難しさのひとつ。
その中でも印象に残ったのは、ガエル・ブージュとゲンドリン・ロビンの「INCIDENCE 1327」。1327年の出来事と題しているけれど、私にはアヴィニヨン郊外にあるモン・ヴォントゥという2千メートル弱の山の描写が印象的だった。1年のうち300日以上風が吹き荒れている山。風速31.3mを記録したこともあるという。そこにまつわる名もしれぬ実在の人々の生活が浮かび上がる。統計や出来事を淡々と語りながら、大きなオブジェに手が加えられ、煙が吹き出て、しまいには炎まで見えるという過激なパフォーマンスに驚きながらも、その綿密なリサーチは尊敬に値するほどだった。(7月8日)


「INCIDENCE 1327」©Christophe Raynaud de Lage

型破りなパフォーマーで有名なクローディア・トリオジは、音響・音楽家のダヴィド・ソムロと「アクセント」を。期待していたのだが、トリオジがマイクを持って奇怪な声を出すだけで、動きはなく、私にとってはかなり期待外れだった。


「アクセント」©Christophe Raynaud de Lage

キンカレリという一癖あるパフォーマンス集団の創設者の一人だったクリスティーナ・クリスタル・リゾと音楽家サー・アリスの「(無題)HUMPTY DUMPTY」は、舞台一面に置かれたメガホンからのサイレンの中、アリスのヘタウマソングとは関係なく真面目に踊るリゾの姿が不協和音。キンカレリらしくそれを狙っていたのだろうと思うけれど、前の「アクセント」も同じような傾向だったので、これは組み合せが悪かったとしか言いようがない。(7月20日)
ヌーボーシルクのマチュー・ドセーニュ・ラヴェルとミッシェル・シュエイザーの「BÂTARDS」は、鉄条網の歴史と変化を面白おかしく解説し、その横でサラサラとアクロバットが演じられた。アクロバットと鉄条網の関係がもっと明確になると良いのになあと思いながら見ていたら、最後に鉄線に羽毛のついた鉄条羽毛になって、重力に逆らうようなアクロバットと一致した。


「BÂTARDS」©Christophe Raynaud de Lage

活動が注目されているジャン・ガロワは、役者のラザーと組んでのドタバタ劇「L’ÉCLOSION DES GORILLES AU CŒUR D’ARTICHAUT」。タイトルからしてふざけてる。おじさん(失礼)と若い娘のトンチンカンな噛みつきごっこが面白い。ハイテンションで続くので、どこかでシラーっとするような、テンポを変えるところがあるともっとメリハリが出たのではないかな。それにしても、ジャン・ガロワは元気だ。(7月20日)


「L’ÉCLOSION DES GORILLES AU CŒUR D’ARTICHAUT」©Christophe Raynaud de Lage

フェスティバルの終盤に上演されたのが、ラファエル・コタンの「C’EST UNE LÉGENDE」。ルイ14世によって始まったダンスを、20世紀の流れと、ラバンダンスセンターで学んだ自己の経験などをもとに解説した、踊るダンスの歴史教本。ふたりの男性ダンサーが、ガキンチョになり、青春期を迎え、ピナ・バウシュになりながらダンスの変遷を語るのは微笑ましい。ダンスの歴史と、特に20世紀に多くの影響を与えた振付家の作品の抜粋が見られて、ちょっとパロディ的でもあるけれど、誰もが楽しく見られる作品になっていた。(7月23日CDCNイヴェルナル)


「C’EST UNE LÉGENDE」©Christophe Raynaud de Lage

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