今年のリヨン・ダンス・ビエンナーレは、「昔に戻ろう」と称して、9月6日から27日までの約3週間行われた。創設してから25年目にあたる今年は、19カ国から43カンパニーが上演し、そのうち19公演は完売という盛り上がりを見せた。ビエンナーレの目玉でもあるデフィレを逃してしまったのが心残りだったが、年々着実に一般市民にもダンスが浸透してきているのを実感し、大変嬉しく思った。今年は、07/08年度のフランス批評家組合大賞を取ったマギー・マランの作品と、ジャンポール・ゴルチエの衣装で白雪姫を創作したアンジュラン・プレルジョカージュを見るのが目的で、後半の25日から28日まで訪れた。では、見た順に。
テロー・サーリネン「NEXT OF SKIN」
サーリネンの作品は、一種独特のものがある。私の中では、彼がフィンランド人だというイメージのせいか、彼の作品にはいつもひんやりするものを感じる。さてこれは、一言で言えばホラー映画みたいで、中世の洋館から出て来たゾンビが織りなす一夜の物語と解釈した。ワイングラスのふちを擦るキーンと言う音が、タイムスリップさせたのかもしれない。血の気がなく、目の下にクマがあり、髪はボサボサで、だぶだぶの重ね着をした人々がひとしきり暴れたかと思うと、今度は頭が異常にでかい人たちが何かに怯えていたり、吸血鬼が出てきたり。そしてそれらを冷めた目で見つめる宙に浮いた顔。夢でも見ているかのように、脈絡がありそうでない場面が次々と流れていく。まじめに見てしまったが、もしかしたらもっとお気楽に構えて笑えば良かったのかもしれない、ということに気がついたのが、後半。なぜ笑えなかったのか? 前面のシャ幕のせいなのか、舞台にいる人たちの存在が遠くに感じられて、中に入っていけなかったのだ。ただ、照明の演出効果が高く、平坦な舞台を様々な次元で見せたのは見事。また、最後にサーリネンがゆっくりと歩く場面は、西洋的な舞踏で、彼独特の存在感が印象的。この雰囲気を上手くまとめたのが最後のグラスミュージック。キーンと冷えた空気が身体をよぎった。(9月25日ラ・トボガン・デシーヌ)
(C)Christian Ganet
ポール=アンドレ・フォルティエ「ソロ30X30」
30分の作品を30日間、というテーマで続けているシリーズ。雨の日も風の日も猛暑の日も、同じ作品を同じ場所、同じ時間に1ヶ月演じる。2006年から始まったシリーズで、山口県でも上演している。ここリヨンでは、黒い衣装でシャープなイメージだったが、山口では、ブルーのバンダナにジーンズで、ゆったりと踊っていたそうだ。同じ作品が環境の違いによって変わる。その変化は、肉体と感性を通したものであり、作品が環境によって大きく変わることを示している。ただ、毎日見に行けるわけではないので、こうして1回見た限りでは面白さはわからない。たとえリヨン版であっても初日と後半では変わってきているだろうし、他の都市ではもっと違うだろう。写真などの展示で変化を見せてくれるとよかったのではないだろうか?(9月26日リヨン市場の近くにて)
(C)Michel Cavalca
カンパニー・バラカ/アブー・ラグラ「D’EUX SENS」
2畳ほどのワイン色と白色の絨毯の上でのデュエット。重なるようで重ならないユニゾン。これは実際の夫婦のデュエットなのだが、共通するのはダンスが飛び抜けてうまい事だけで、そこに会話がない。ただ、アブーは変わった。人間味を増して表情が豊かになった。彼は優しい視線を投げ掛ける。しかし、妻は淡々と踊るだけで、ラグラに返す言葉がない。それが気になった。ただ、これだけラグラが変わったと言う事は、これから先彼が大きく変わっていく予感がする。それが楽しみだ。(9月26日リヨン・オペラ座アンフィテアトル)
(C)Julie Romeuf
レ・バレエ・C・ドゥ・ラ・B/テッド・ストファー振付「APHASIADISIAC」
どこにでもいそうな人々の日常。でもちょっと変わってる。四角い積み木を自分の周りに積み上げていく男女。自分の背丈よりもずっと高く、積み木を重ねるのを他の人に手助けしてもらいながら。積み木には文字が書いてある。自分を世間から守るための塔か。それとも自分そのものなのか。1人は積み上げたものをひとつずつ取り除き、もう1人はあっという間に崩してしまう。自分をアピールする女。壁の高いところに置かれたドラムセットによじ登り、宇宙船に乗るかのように安全ベルトを締めて、がくんと椅子の方向を変え、床に平行な状態でドラムをたたく男。トランペットをひたすら吹く男。みんなが誰かしらと関わっているが、個人は個人でしかない。なぜか空虚な関係。これが現代の人の姿なのかもしれない。(9月26日ベニッシュー劇場)
(C)Christian Ganet
マギー・マラン「TRUBA」
見終わってずっしりきた。人の歴史は重い。ダンサーが歴史とそれに翻弄された人々の人生を語る。人は必ず死を迎える。その死後も世の中は何も変わらず、いつも通りに廻っていく。王であれ、兵士であれ、金持ちであれ、平民であれ、人生をまっとうしているのであれば、その意味においてみな平等であり、終わりよければすべてよし、ということなのだという。水が流れるように人の歴史も流れ、留まることもない。次々と衣装を変え、さまざまな国の言葉で語る。言葉一つ一つを理解できなくても、そこから感じられるものがあればよいのだろう。2007/08年のフランス批評家組合大賞を受賞した作品。最近のマギー・マランの作品では、人生を考えさせられることが多い。(9月26日スタジオ・ヴィルーバンヌ)
(C)Julie Romeuf
カンパニーL’A/ラシッド・ウランダン「LOIN…」
自分の責任ではないのに戦争とか政治に巻き込まれ、苦しい時代を過ごした人々の映像を通して人生を語るのだが、映像とウランダンのソロダンスの関係が見えてこない。人々のドキュメンタリーはインパクトが強い。それに対抗できるだけの何かが舞台には欠けていたような気がした。(9月27日CCNリリュー・ラ・パップ)
(C)Christian Ganet
レクスペリエンス・アルマット/ファブリス・ランベール「A COMME ABSTRACTION」「GRAVITE」
20分ほどのランバート自身のソロを2作品。美的感覚のある人だ。「A COMME ABSTRACTION」は、四角いスポットの中に浮かび上がる白いスーツにサングラスのちょっときざな男。気取っているようでちょっとコケティッシュ。ほほえましいソロだった。印象に残ったのが「グラヴィテ」。薄く水を張った中に彼は横たわっている。水面が鏡のようだ。そして彼の影がぼんやりとホリゾントの中央に浮かび上がる。影の周りに波紋が沸き立つ。目を凝らさないとわからないような身体の小さな動きが、波紋となってホリゾントに広がる。それだけなのだが、きれいな作品だった。(9月27日ル・ラディアン)
「GRAVITE」 (C)Michel Cavalca
アクロラップ「PETITES HISTOIRES.COM」
タイトル通り、短いコントで綴る1時間。大きな時計のゼンマイをイメージした装置から想像すると、夜中に起こる不思議な物語なのかもしれない。お笑いに、アクロバットに、次々と現れる小道具たち。アイディアがありすぎて、ちょっと散漫になってしまったような感もあったが、それはエネルギーで押し通す。この作品は、ペリゴールのミモス・フェスティバルで大賞を取り、振付家のカデール・アトゥは、レジーヌ・ショピノが長年ディレクターを務めたラ・ロシェルのCCNのディレクターに指名されたという、ビッグニュース続きの今年。ヒップホップの振付家がCCNに任命されるのは初めての事で、これからの活動が期待される。(9月27日トランスボーダー)
(C)Michel Cavalca
バレエ・プレルジョカージュ/アンジュラン・プレルジョカージュ「白雪姫」
あのプレルジョカージュが「白雪姫」をダンス作品にし、しかも衣装はゴルチェ。この話題作に期待は高まり、全公演完売。確かに演出はうまい。装置も地味派手でおしゃれ。ただ、なんともいただけなかったのが、白雪姫の衣装。私が見た日の白雪姫は白井渚だったが、日本人の体型の欠点ばかりが目立つ衣装でがっくり。顔はでかく、足は短く、お尻は垂れ、、、。彼女を「春の祭典」で見たときは、きれいな身体をしていると思ったのに、今回は????? しかも白い清楚な衣装の前垂れが股をくぐっているのがおしめのようでなんとも情けない。私の知る限り、日本人のほとんどがこの衣装にがっかりし、しかしフランス人は「かわいい」「相撲みたい」「変わっていて面白い」という感想。これが日本人とフランス人の感覚の違いだろうか?王子の衣装はオレンジ色のマタドールで、なんだか品がない。一番豪華で良かったのが継母の衣装。これは国籍を超えて一致した意見。お城に招待された貴族の衣装は、すっきりしているものの民族衣装のようで、豪華さに欠ける。と、ダンスより衣装に先に目が行ってしまう。古典バレエに見られる宮廷シーンの豪華さに比べると、衣装もダンスの構成もよく言えばすっきり、悪く言えば貧弱という出だしにがっかり。継母の鏡のシーンの見せ方は上手いと思ったが、白雪姫を殺す刺客の衣装が、緑のベレーをかぶった迷彩色のミリタリールック、ニュースで見る戦場の兵士そのもので、もう少し想像を膨らませた衣装にはならなかったものだろうか。継母の衣装はゴルチエ風味で、豪華で美しく、ペットの黒猫の衣装も動きも良い。と、前半はつまずきながらもクリアー。小人がどうなるかと思ったら、後ろの壁を垂直に下りて来て、空中芸をするが、おでこに付いているランプが炭坑のおじさんみたい。オレンジ系の衣装を着ているうえ、洞窟に住んでいるので、アルカイダを連想してしまったという人もいた。ここまでは複雑な気持ちで見ていたが、継母が老婆に化けて、白雪姫に毒リンゴを食べさせるシーンと、仮死状態になった白雪姫を見て王子が嘆き悲しむシーンは、ロミオとジュリエットを連想させてしまうのが気になるが、さすがプレルジョカージュとうならせる。これでもかこれでもかと見せるし、泣かせる。そのまま盛り上げて一気にラストに持っていき、終わりよければ全て良しで、うまくまとめているし、楽しめる作品。だが、何かしっくり来なかったのは、なぜだろう。(9月28日メゾン・ド・ラ・ダンス)(文中写真(C)Michel Cavalca)
プロジェ・イン・シチュ/マルタン・シャプ&マーシャル・シャザロン「言いたい事がわかる?」
目が見えないと言う事がどんな事だか想像できる?これは2時間半かけての体験パフォーマンス。目隠しをして町の中を2時間散歩。もちろんちゃんと誘導してくれる人がいるから安心。歩き、道を横切り、ある人のお家にまでお邪魔する。紅茶をいただいて、再び町へ。建物の庭へ入り、植物に触れ、それから建物の中へ。ここでは目隠しされた状態で踊るのだ。これも同伴してくれるダンサーの誘導で、沢山の柱がある広い部屋の中を走ったり転がったり。目が見えないとは思えないような動きをする人もいる。最後はテーブルを囲んでのディスカッション。その内容を記録するのが盲目の人たち。この2時間半で何を感じたかって? 匂いと、足の裏の感覚。アスファルトの上を歩いているとか、砂利の上を歩いているとか。いつも歩いている道なのに、全く違う表情を見せてくれる。目が見えることによって感じない事が感じられてくる。時には全盲の人が同伴してくれるとか。是非お試しあれ。
(C)Michel Cavalca
数年先には引退を表明しているディレクターのギ・ダルメ氏だが、彼の頭の中にはプロジェクトが詰まっているようだ。ビエンナーレの看板でもある街を挙げてのデフィレでは、いまや超人気のヒップホップグループ・カーフィグの振付家のムラド・メルズーキに指揮を頼み、4000人を同時に躍らせたとか。そして、すっかり定着したフェット・ド・ラ・ミュージックにちなんで、フェット・ド・ラ・ダンスを立ち上げたいそうで、音楽の日が夏至なら、ダンスは、立秋の9月21日にして、全ての人に開かれたお祭りにしたいと、すでに2年後のアイディアに意欲を燃やしている。そのビエンナーレは、2010年9月10日から10月12日で、デフィレは9月12日、そして実現すれば、9月21日にフランスで最初のフェット・ド・ラ・ダンスがリヨンで催される。ダルメさん、この分では、引退はもっとずっと先になるかもしれませんね?